コミュニケーションは映像を通じて

コミュニケーションは映像を通じて

私が身を置く、話し方・コミュニケーションの業界はぬるい世界です。

その教えの原型にはアナウンサー養成のテキストがあり、50年以上もその形は変わっていません。

発声練習、早口言葉・・・
でも生徒も薄々気づいているはず。
これでうまくなるはずない、と。

さあ、そこでコミュニケーションの世界にも革命が起きようとしています。

伝えるということを根本から捉えなおした大きな変革です。

これまでは言葉に偏った研究ばかりがなされて来ました。

ここでどう言えば人は動くのか。
親しくなれるのか。
説得できるのか。
口説けるのか。

でもうまくいった人の言葉をマネしても、人が替わり、伝え方が替われば、全く違う結果になってしまう。

言葉にいくら期待しても、言葉だけでは伝えられないものがあるのです。

そこで私はハタと気が付いた。
コミュニケーションは言葉で行われているのではない。

コミュニケーションは映像を通じて行われているのだ。

何を話すかに気を取られているとコミュニケーションを見失う。

コミュニケーションを上達させたければ、映像をいかに伝えるかに心を砕くべきなのだ。

例えば、
「9月の初めに海に行って来たんだけど、もう波も高くて風も強くて浜辺には人がいなくて寂しいもんだよ」

と一気に伝える言い方をする人の方が世の中には圧倒的に多いもの。

でも本当に上手な人はこんな伝え方をします。

「海に行って来たんだ。9月の初めだったかな」

「もう波も高くてね」

「風も強いのよ」

「浜辺には誰もいなくてね」

「寂しいもんだよ」

こっちの方が、寂しい感じが伝わって来るはず。

何が違うのか。

それは後者(うまい人)の伝え方の方が映像が浮かぶところ。

後者の方の間合いが大きいところはそれだけしっかり間を空けて話している様を表しています。

真に話がうまい人は、聞き手がいかにして映像を浮かべているのかをしっかり意識しながら話しています。

立板に水の如く話す。
これも実は話し下手のひとつ。
話が非常に伝わりにくくなります。

今日の話だけでは、まだピンと来ない方もご安心ください。

時々、この続きをお話します。

未だこの発見は世間からは評価されていませんが、あと数年もすれば多くの人が

コミュニケーションとは
「映像のやりとり」
という話をし始めるでしょう。

ああ、理不尽

世の中は理不尽がまかり通っている。

先日の電車の中でのこと。
私は6人掛けの座席で、左のはしっこに座っていた。

私の横にはバーがあり、そこに肘をかけられる。

そんなのどかな車内で、あの忌まわしい出来事が起こった。

私が肘を軽くおいたそのバーに、大きなお尻の奥さんが腰かけて来たのだ。

思わず肘を引く私。

それだけならまだしも、そのご婦人は尻を深く腰掛け、本格的に座っている。

そこは座るとこじゃない!
私の肘を置くとこだ。

そのご婦人の尻はバーから肉がはみ出して、もう私の肩に直接触れている。

ああ、なんたる災難。

私はここでハタと気づいた。
私の肘や肩をこのご婦人の尻に当てに行けば、私は犯罪者。

なのにこのご婦人のバーからはみ出したでっかいケツから私の肩や肘を攻撃されても警察は動かない。

なぜだ!

私の肩や肘はこのご婦人の尻より価値がないのか。

悲しい。

この差別をどうしよう。
誰に訴えかけよう。

ああ、理不尽だ。

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